前回の続き パート2

福建省福州市では地元工芸の漆塗りの技術を利用して日本の小物家具の製品開発と農産物の生姜の買い付けに行き、福州市から厦門近くの農村を視察に行く途中に福州市から100㎞毎に言葉が違うので訪れた村々にそれぞれの通訳が必要でした。なぜならば上海から蘇州の時は上海語→北京語、蘇州語→北京語でしたが福建省はA村語⇔闽南语→福州語⇔北京語、B村語⇔闽南语→福州語⇔北京語というように大変な過程を踏みました。漆塗りについては日本より繊細な技術能力がないため没になりました。当時中国からの輸出入はCOSCOという中国の国営船舶会社が殆どを担っていたため海外の大手の船舶会社を利用することは不可能でした。スクラップ寸前の船舶が多くメンテナンスもなされていないような状態と聞いていました。ファックスが先進の通信機器の時代でしたが中国の殆どの会社は勤務時間を過ぎると電話やファックスの電源をOFFにしていたので急ぎの場合に機能しませんでした。テレックスは日本でも大企業の国内外間や貿易会社に使用されていて一般の組織では必要ないので使われていませんでしたがもちろん英語を含み外国語が出来る中国人は希少でしたのではあまり使われていませんでした。生姜の試輸入は20ftリーファーコンテナ1台(40ftが無かった?40ftの船積みドレージが不可か?忘れましたが)で行いました。福州港から横浜港に入港予定のCOSCOのコンテナ―船の消息が全く掴めなくなり一月後に遅れてコンテナが到着したと乙仲から連絡がありました。最初のことなので立ち合い検査(サーベイ)を日本海事検定協会に依頼しました。コンテナ―を開いて見ると荷物はカビだらけで廃棄処分にしました。当時のインコタームズ=国際貿易取引条件についてはCOSCOはFOBのみのため幸い日本の保険会社にも保険を掛けていたため損失は僅かになりました。サーベイはコンテナが壊れて隙間があるかどうか等細部にわたって調査した結果はボロコンテナ船が福州港を出港して間もなく何らかの故障で臨時に厦門港に入港し修理をすることになりましたがリーファーコンテナの電源を港の電源に切り替えなかったため電気の供給が途絶え、生姜は温められカビが発生してしまいました。

前回の続き

※前回の続き:4月13日

当時の上海空港は虹橋飛行場のみでした。飛行場から上海市内にはタクシー(スクラップ寸前のルノー)を利用し飛行場からホテルに着くまで荒野と畑のだけの単調な景色と使用していないトーチカがあちらこちらに見えました。ホテルに着いた時ホテルの玄関入口から遠い所に車を停め料金をかなり吹っ掛けられ兌換券(外国人専用の貨幣)も少なかったのでホテルの入口に居た門衛か公安(警察)かに支払い料金を話したらタクシーの運転手は料金を貰わずその場から走り去りました。白タクだと思います。泊まったホテルは確か和平飯店か花園飯店、錦江飯店のどちらかだったと記憶が曖昧ですが確かタクシーが着いたところは賑やかな場所ではなかったので錦江飯店か花園飯店のどちらかでした。しかし、和平飯店で蘇州に行く時の通訳のおじさんがボイルした上海ガニをバケツ一杯持って来たのでホテルのレストランで食べたことは覚えています。和平飯店ではコーヒーを花園飯店、錦江飯店は最近出張と旅行で利用しました。当時靴下メーカーの社長がカシミヤのセーターを中国から輸入しようとして北京、上海とに同行して行ったたのが北京や上海でした。仕事なので上海の旧日本租界のホテルにも泊まりましたが朝は朝星夜は夜星で租界の風景が全く見ることが出来ませんでした。20年ぐらい前その社長は蒙古でカシミヤの牧場を開き元糸にして西欧のファッションブランドに輸出販売していたことを直接聞きました。私と一緒に中国へ絹とカシミヤの商品開発に出かけた40年前が始まりでした。北京や上海では国営(当時殆どが国営工場)の絹糸の紡績工場やカシミヤ等の編み物工場(メリヤス工場)を訪問しましたが商談には漕ぎつけませんでした。鄧小平の改革開放政策以前は国営工場の経営はのんびりしていて売り上げを伸ばすようなことは殆ど考えていないようでした。ホテル等も部屋が沢山空いているにも係わらず宿泊客を増やすことに消極てきでした。実際はのんびり政策ではなく仕事が増えても給与が増えないことから来ていたと思われます。銀行や百貨店では両替や釣銭を客に対して乱暴にお金を投げ返してくるのが通常でした。

情報

人・物・金・情報の中の私が知っている情報を少し話します。

香港ですが現状は中国政府が介入してきまして香港に何を期待するかは非常に問題があり難しい状況と思います。

韓国ですが韓流のドラマは日本やその他アジアでは非常に人気があります。ストーリーがハリウッド映画のような演出でテンポが非常に無駄のない速さで視聴者を虜にします。韓国の社会状況・ファッション・登場人物の顔(メイク)や性格(表情)・最新のAIを駆使し鋭く著わしていることです。若者のファッション性のある衣料品は質を問わなければ日本人が安価に仕入れることが出来ました。【蛇足ですが日本のファッションについて香港に駐在している時にパリに家族旅行をし百貨店で婦人用ダウンコートを購入しましたがその10年後に日本でも流行りはじめました。現在2021年ですが全く20年前パリで購入したものが日本の百貨店で現在販売されているようです。20年前香港から帰国しましたが香港のイギリス系百貨店で購入した型落ちの背広の型が日本で流行り始めたのことを思い出しました。】

韓国南部の島々ではアワビ養殖場が多く韓国で養殖し成長した日本産2世3世のアワビの孵化から稚貝の陸上養殖、成長した稚貝の洋上養殖場と小さな稚貝を日本から輸入して陸上養殖・洋上養殖し生育したら日本に輸出しています。築地市場の外国産活きアワビの90%以上は韓国産です。質の良い養殖アワビは稚貝を日本から輸入していました。

中国人が人民服を着ていた随分前になりますが北京市内のカシミヤのセーター工場を視察にいきました。戦前の英国系の大変レトロな大きな工場でした。紡績・染色・編み上げ・セーター製造まで一貫した工場でした。カシミヤセーターが日本で流行り始めた頃で当時衣料品が得意な某大手量販店も中国からカシミヤセーターを輸入し販売し始めたところでした。なお、その後にカシミヤのオーバーも大衆が購入しやすくなりましたが北京市内の百貨店ではカシミヤの生地反物を展開しカシミヤコートをオーダーメードで販売しておりました。

上海市北京市と同時期に絹製品の工場視察に行きました。当時は国営の会社ばかりで絹製品は江蘇省蘇州にあると聞いて南京に近い安徽省出身の50歳過ぎのおじさんに案内してもらいました。現在では北京語が国語になっていて中国の全域で使われていますが、当時の上海では上海語が多く蘇州では蘇州語が多く話されていましたので通訳もそのおじさんが兼務して案内してくれました。上海を朝5時には出発し蘇州に着いたのはお昼頃でした。車は中古と言っても日本ではスクラップ必須の国名は覚えていませんが確かヨーロッパ産中古車でした。行けども行けども畑や荒野でまた道路も悪路のため、今では高速で渋滞しても2時間余り、新幹線では30分ぐらいの上海近郊ですが当時は車で6時間もかかりました。この案内の中国人のおじさんに前日工場とアポイントをとってもらいましたが着いた時間が遅かったため担当者に会えず残念なことになりました。蘇州の湖畔で蘇州料理の大きな淡水魚(草魚?)を食べましたがまだまだ文化大革命の残した影響で美味しくは感じませんでした。余談ですが上海の飛行場から※次回に続きます。

 

コネクション

 前回に私の貿易実務経験についてのほんの一部の例を紹介しましたが、営業をする上での基本は人、物、金、情報です。その中で私に関しては人と情報についてのコネクションは台湾、タイ、中国、香港、ニューヨークにあります。台湾では中年台湾人の義理の兄弟や親友が台北、台中、高雄にそれぞれ住んでいます。タイでは実子がバンコクに駐在、香港には生粋の香港人が香港を基点として広東省福建省に関係し、中国では上海人が上海に拠点を設け浙江省に学生時代の友人がおります。中心関係しています。ニュウヨークには台湾の親友の実子が会計士の仕事をしています。ニッチな貿易実務の私の方法はインターネットの検索を使うのが基本ですが上述のコネクションも必要であれば要請します。海外は観光旅行を除いて現地駐在や長期出張、短期出張で直接海外に行った国や都市は台湾全域、香港全域、韓国(ソウル、木浦、珍島)北京市上海市浙江省全域、江蘇省全域、福州市、広東省全域、バンコク、マレーシア、シンガポール全土、インドネシア(バニョワンギ、バリ州全域)ダッカ市及びその近郊、ロサンジェルス市、メキシコ(メキシコシティー、エンセナダ、ロスモチス、グアイマス)等でした。

 

自己紹介

2021年3月30日に”はてなブログ”を開設しました。IDの手続きだけと思っていましたがよくわからないままにこのプロフィール画面が出てきました。専門商社に勤めており10年以上の海外駐在も経験してきましたが高齢の両親のために実家に近い小規模の会社に転職しました。貿易実務ができるためその会社が長い間考えていた海外からの製品を商社を通さず直接に製造から輸入までの開発を私一人に任されました。その製品は既に外国の商社に委託し輸入していた関係上図面も製造の専門の技術者もその商社任せで寸法のないレイアウト図と現物があるだけ複数のアイテムもカタログがあるだけでした。日本の製造工場で造るとコスト的に採算が合わないため既に海外の日本語ができる商社から仕入れていましたがその工場が大手製造メーカーに吸収され会社の方針に合わない部門は閉鎖され供給できなくなりました。偶々私が営業職として採用されたのですが私一人で海外担当も兼務させられました。海外企業のホームページも現在の様に検索数が多くなく本来の営業の傍らパソコンを相手にインターネット検索をしました。ホームページの出来栄えの良し悪しに係わらず会社の規模や能力を判断するのは難問でした。オファーするための寸法入りの図面を作成したりカタログの写真をPDFで写真を作ったりしました。またニッチな仕事と要外国語なのでまわりの同僚からは仕事柄協力してもらうことは不可能でした。適当と思われる現地製造メーカーを10社位選定し現地に赴き一日に3から4社くらいのハードな日程で工場を視察し見積をお願いしました。それらの製品は中国の広東省江蘇省浙江省が最適と解りました。自動車産業のための材料が現地で原料から製品されていたためです。ベトナムやフィリピン、インド等もインターネットで探しましたが当時中国のような工業化はされておらずメールでのやり取りで終始しました。当然欧米諸国も調査しましたが結局はコスト高或いは工場ではなくブローカーでした。なお、ゼロからの開始で調査、オファー、見積確認、工場視察、注文、輸入まで約半年を費やしましたが100%成功しました。なお、供給もれが起こらないように2社ほど確保しなければならずそれも並行しておこないました。開発費も含んで日本製造の十分の一のコストでした。これらは軽工業製品ですがその他として生き物のサプライヤーを探索して現地視察と価格のネゴ等での発注、輸入、通関、配送。その他大小諸々の実務を実際に自分で行ってきました。例えば日本の中古漁船の輸出では先ず中古漁船の競売での入札或いは売り出している持ち主から直接購入する。中古車の輸出とは違い中古漁船の船主が抱えている負債が当該船を担保にしたものかどうか?漁船の漁撈機器がリース契約を結んでいるか?その他根抵当が設定されているのか?殆どが農林中央金庫よりの借入金で船を購入している。係留料金の長期不払い。その他諸々の問題を解決しなければならない。輸出する際の漁撈機器撤去(漁船として輸出出来ない法律)工事をしてくれる業者とドッグの選定。輸出時の船を目的地まで運ぶための船長機関長の求人。中古漁船の持ち主の名義変更、輸出申請等の地元の海事事務所、国土交通省経済産業省水産庁への書類作成及び輸出に係わるインボイス、パッキングリスト(船には何千という部品が付属しているのでそれら全てを英語で書き込む)の作成。中古漁船の輸出が煩雑で時間がかかりました。以上私の自己紹介をさせて戴きました。これらの実務経験を活かして個人輸入のお手伝いが出来ればと考えております。

 

個人貿易

個人で輸出入を考えていますが未だ具体的に考えがまとまっていません。いままでサラリーマンとして輸出入実務やそれに付随する製品とか商品開発に直接携わってきました。今日初めて”はてなブログ”を開設した。以上短いですが簡単な挨拶、自己紹介に代えさせていただきます。