前回の続き

※前回の続き:4月13日

当時の上海空港は虹橋飛行場のみでした。飛行場から上海市内にはタクシー(スクラップ寸前のルノー)を利用し飛行場からホテルに着くまで荒野と畑のだけの単調な景色と使用していないトーチカがあちらこちらに見えました。ホテルに着いた時ホテルの玄関入口から遠い所に車を停め料金をかなり吹っ掛けられ兌換券(外国人専用の貨幣)も少なかったのでホテルの入口に居た門衛か公安(警察)かに支払い料金を話したらタクシーの運転手は料金を貰わずその場から走り去りました。白タクだと思います。泊まったホテルは確か和平飯店か花園飯店、錦江飯店のどちらかだったと記憶が曖昧ですが確かタクシーが着いたところは賑やかな場所ではなかったので錦江飯店か花園飯店のどちらかでした。しかし、和平飯店で蘇州に行く時の通訳のおじさんがボイルした上海ガニをバケツ一杯持って来たのでホテルのレストランで食べたことは覚えています。和平飯店ではコーヒーを花園飯店、錦江飯店は最近出張と旅行で利用しました。当時靴下メーカーの社長がカシミヤのセーターを中国から輸入しようとして北京、上海とに同行して行ったたのが北京や上海でした。仕事なので上海の旧日本租界のホテルにも泊まりましたが朝は朝星夜は夜星で租界の風景が全く見ることが出来ませんでした。20年ぐらい前その社長は蒙古でカシミヤの牧場を開き元糸にして西欧のファッションブランドに輸出販売していたことを直接聞きました。私と一緒に中国へ絹とカシミヤの商品開発に出かけた40年前が始まりでした。北京や上海では国営(当時殆どが国営工場)の絹糸の紡績工場やカシミヤ等の編み物工場(メリヤス工場)を訪問しましたが商談には漕ぎつけませんでした。鄧小平の改革開放政策以前は国営工場の経営はのんびりしていて売り上げを伸ばすようなことは殆ど考えていないようでした。ホテル等も部屋が沢山空いているにも係わらず宿泊客を増やすことに消極てきでした。実際はのんびり政策ではなく仕事が増えても給与が増えないことから来ていたと思われます。銀行や百貨店では両替や釣銭を客に対して乱暴にお金を投げ返してくるのが通常でした。